ウーラントによって1823年に作られた「渡し場」の原詩「Auf der Überfahrt 」を、誰が最初に日本へ紹介したかは、確たるところは不明であるが、「文語訳詩誕生の経緯」の項で記したとおり、新渡戸稲造が有力候補であるとするのに、異論は少ないと思われる。
そこで、 新渡戸稲造著「世渡りの道」から「同情の修養」の一節を、「渡し場」の原詩を紹介している一例として、次のとおり掲げたい。
同情と親友に就て思ひ出さるゝのは、ウーランドの詩である。氏は独逸の政治家であると共に一代の大詩人で、六十余年前に最も持て囃された人である。氏の叔父に牧師になった人がある。又氏と同窓で法律を攻め、後に一年志願兵となり、ナポレオンの戦争で戦死した親友がある。氏がネッカル川を渡るとき、この親しき二人の死を想出して詠じた詩は、実に親友に対する熱情を披瀝したものである。
河畔には当年の古城が依然として夕陽に聳えて居る。
河上にはヤナが昔と変らず淙々として響いて居る。
その時には我の外に二人の友が此の舟に座し共に此河を越えた。
一人は老人で静に世を渡り後ほど静に世を去った。
一人は血気熾(さかん)な青年で、嵐の中に身を処して遂に嵐の為に倒れた。
有りし当時を追懐すれば、何時も二人の面影が現はれる。而も此二人は死の手の為に我より裂かれたるものなるに……
否、否、我が二人と交りて、友よ、友よと親しんだ睦さは、肉の交りにあらざりし。心と心との友誼であった。魂と魂との交であった。
霊的親交なりし上は、ヨシ今肉体はあらなくも、尚親しみは変るまい。
オイ船頭、モ-舟が着いたの-。コレ、三人分の賃銭を払ふから納めて呉れ。
お前の目には見えなかったであらうが、客は我の外に尚二人あった。
親友に対する斯かる切なる情は、自然に磨かれて四囲の人々に対しても、温かき同情を表はすやうになる。その情は決して親しき二人に止まるものではない。ウーランドの心中を更に知らない船頭まで、その恩恵に浴する様なものである。