「渡し場」の原詩「Auf der Überfahrt 」は、ライン川支流のネッカー川が流れるチュービンゲンに生まれ育ったドイツ詩人ウーラント(Ludwig Uhland)によって1823年に作られた。
それから約90年後、明治から大正となった1912年頃、明治20年(1887)から3年間のドイツ留学経験がある新渡戸稲造らが、この詩を「友情はかくありたい」といった趣旨で、講話、雑誌、単行本などを通じ、少年少女、学生、一般人に盛んに紹介した。
戦後においても、新渡戸の影響を受けたと思われる教職者が、学生に語り伝えることがあった。やがて、戦後の混乱が落ち着き始め、後に神武景気といわれるときに、「渡し場」の文語共訳者の一人となった猪間驥一が、昭和31年(1956)9月13日発行朝日新聞(東京版)の「声」欄に「老来五十年 まぶたの詩」と題して次の投書を行った。
◇「渡船に乗って川を越そうとしている老人がある。何十年か前に、彼は親友と連れ立って、同じ渡しを渡ったことがあった。老人のまぶたの裏には、なつかしい亡友のおもかげが、そのかみの数々の思い出につれて浮かんでくる。
『着きましたよ』という船頭の声に、驚いて老人は立上って、渡し賃を払う。一人分の倍額ある渡し賃『船頭さん、それだけとっておいて下さい。お前さんにはお客は一人しか見えなかったろうが、わたしは連れと一緒だったつもりだから』と老人がいった」
◇私は子供のころ、これを少年雑誌か何かで読んだ。そのとき、大きくなって外国語がわかるようになったら、それを読み直そうと思った。そして一、二の外国語を学んで、この詩にめぐり会おうと心がけてきたが、それ以来五十年ついに会えないでいる。子を失い友を失うこと多く、老来、この詩のこころをひしひしと感ずることがしばしばである。これがどこの国のだれの詩か、何の本に出ているか、どなたか教えて下されば幸いである。
朝日新聞(東京版)学芸欄に、投書者・猪間驥一よる『「まぶたの詩」に会うの記』が掲載され、さらに週刊朝日が『詩 人生の「渡し場」 投書欄に咲いた心の花』として特集記事を掲載した。
資料提供者の中に、原詩と自らの訳詩を提供した、当時20才代の小出健(こいで たけし)がいた。小出は週刊朝日に掲載された文語訳詩「渡し場」の共訳者となった。