新設:2011-01-10
更新:2019-09-23
中国四川省峨眉山麓から 6000キロを流れて
日本の越後宮川浜に漂着した木柱(橋杭)に
良寛は 遙かなる唐土「峨眉山」と
李白「峨眉山月の歌」に 思いを馳せて詠う
娥眉山下橋杭と良寛詩
撮影:2011-06-28
文政8年12月(1826年1月) 現在の新潟県柏崎市宮川浜に 大きな木柱(左写真)が漂着し、拾った漁民が乾かして薪にしようとしました。偶々、文字が読める好事家が通りかかって、この木柱を見ると大きな五文字「娥眉山下橋」が刻まれていたので、漁民に薪を与え木柱を譲り受けました。良寛の晩年で乙子神社草庵居住末期に当たる頃です。
刻された字の「橋」は、「木偏」が「冠」となった通常使われない異体字で、「峨」は「女偏」に「我」の字体でした。(左下の『北越雪譜』に載る「橋杭図」を参照)
この木柱は椎谷藩主に献上されましたが、明治以降は現在の柏崎市高柳町にある村山家・貞観園が所蔵するところとなり、今日に至っています。
鎖国ゆえ、唐土への渡航の夢を果たせなかった良寛は、この木柱(橋杭)漂着を伝え聞いて、遙かなる唐土「峨眉山」と李白「峨眉山月の歌」に思いを巡らせ、下記の漢詩を詠みました。
良寛の唐土渡航の夢を叶え、かつ日中友好を願ってきた柳田聖山は、加藤僖一と共に 日中両国民の多大な賛同を得、橋杭が辿った海上・江上の道筋を逆に辿り、峨眉山麓清音閣の一郭に 1990年8月、良寛詩碑を建てることを為し遂げました。(敬称を略させていただきました)
題蛾眉山下橋杭
不知落成何年代
書法遒美且清新
分明我眉山下橋
流寄日本宮川濱
沙門良寛
蛾眉山下の橋杭に題す
知らず 落成何れの年代ぞ
書法遒美(しゅうび) 且つ清新
分明なり 我眉山下の橋
流れ寄る 日本宮川の濱
沙門良寛
(橋が)できたのは いずれの帝の時だっただろう
筆の動きは力強く 何の俗気もない
まぎれもなく 我眉山下の橋とある
よくもはるばる日本まで 宮川の浜に流れ着いたものだ
(読み下し・通釈は柳田聖山による)
橋杭漂着地・宮川浜 (柏崎市宮川)
橋杭が漂着した宮川浜から 良寛詩碑「題蛾眉山下橋杭」が
中国の峨眉山麓に向けて 出立したという
撮影:2011-06-29
按針亭管理人は、「娥眉山下橋杭」が流れ着いたといわれる宮川浜を、歩くことができるうちに訪ねてみたいと長年思ってきた。大雨が予想されたときであったが、本格的な夏が到来する前に訪ねた。上掲写真3枚は、宮川地区のバス停「龍泉寺前」より椎谷寄りで、宮川地区家並みが切れる辺りから撮影したもの。右写真には激しい波しぶきが見られ、日本海は荒れていた。
柏崎駅前から出雲崎車庫行きの路線バスは、柏崎刈羽原発の脇を通り抜けると柏崎市高浜海水浴場に入り、大湊、宮川、龍泉寺前、高浜、椎谷入口、椎谷中央、椎谷と停車する。さらに、椎谷岬トンネルを抜けて、坂の下へと進むが本数が少ない(出雲崎車庫行バスは、平日4便、休日はナシ)。椎谷岬トンネル手前の「椎谷」止まりのバスもある。
撮影:2011-06-29
冒頭掲載の良寛「題蛾眉山下橋杭」詩碑は、1990年7月16日、宮川浜(※)で出立式を行い、中国の峨眉山麓に向けて旅立ったという。後年、同等詩碑が柏崎市高柳町高尾の「じょんのび村」に建てられた。(参照:次欄「良寛詩碑」)
(※)…出立式当時は空き地であったが、2011-6-29現在では、バス停「龍泉寺前」海側の駐車場と事業所建物敷地となっている場所で出立式が行われたという。(左上写真参照)
良寛「題蛾眉山下橋杭」詩碑の出立式が行われた場所は、按針亭管理人が宿泊した「民宿たや(柏崎市宮川2293、℡:0257-35-2026)」から教示を受けた。「民宿たや」はバス停「宮川」とバス停「龍泉寺前」の中程にある。
バス停「宮川」と「龍泉寺前」は極近く、「龍泉寺前」バス停脇の「龍泉寺」は廃寺となり、跡地は空き地であった。バス停「高浜」は、高浜小学校の前にあり、周辺に人家はない。高浜小学校は宮川地区の端にあって、椎谷地区の子供達も高浜小学校に路線バスで通学するようだ。バス停「高浜」は前後バス停との距離が長い。
撮影:2011-06-28
宮川バス停から数百メートのところに宮川神社があり、「シロダモ」が生える宮川神社社叢は国指定の天然記念物。
撮影:2011-06-29
右上写真のとおり、椎谷岬越えの旧道は灯台入口先で厚いコンクリート壁で遮断され、歩いて出雲崎町方面へ抜けることができなかった(旧道を出雲崎側へ下ったところにもコンクリートの遮断壁がみられた)。徒歩でも車でも、2010年から使用を開始した椎谷岬トンネル(886m)を利用することになる。トンネル内は立派な歩道があって安心して歩くことができた。椎谷観音は、路線バス利用の関係で残念ながら訪ねるのを諦めた。
良寛詩碑 (じょんのび村:柏崎市高柳町高尾)
良寛詩碑「題蛾眉山下橋杭」は 中国峨眉山麓に建つ詩碑と 同等といわれる
撮影:2011-06-28
良寛詩碑「題蛾眉山下橋杭」建立の経緯・趣旨が 副碑に詳しく刻まれている。 中国峨眉山麓に建つ良寛詩碑と同等の詩碑が、何故、新潟県柏崎市高柳町高尾の「じょんのび村」にあるかを理解するため、副碑に刻まれた碑文を紹介します。
(碑は隷書体で刻されている)
高柳「じょんのび村」は バス停「岡野町車庫」から徒歩約20分
沙門良寛、越後出雲崎町名家に生まれ、仏道
を究めしが、生涯清貧を貫く。
一八二五年一二月、「娥眉山下※」の五大
字を刻したる木柱、寒風烈する柏崎宮川濱に
漂着す。唐土、峨眉山下より巨濤千里を流れ
来る橋杭なり。良寛、遥かなる想いを七言の
詩に託し「題我眉山下橋杭」を詠ず。
今や平和の至るを以て、良寛詩碑を中国に
建立し和尚の渡唐の夢を達せしめ、日中友好
の懸橋たらんと希うは柳田聖山日中友好漢詩
協会長と新潟大学加藤僖一教授にして、賛同
者全国に多し、時の町長永井勇雄氏、其の橋
杭が我町に存する縁を辿りて、有志を募り黒
姫の銘石を献じ、郷土の石工森健治氏の刻せ
し碑は宮川濱を出立、長江を遡り峨眉山下清
音閣公園に建立さる。時一九九〇年八月、日
中両国要人共に現地に列し除幕す。
一九九四年八月、柏崎市長、高柳町長、住
民と共に峨眉山市を訪い、友好発展の努力を
確認、今に交流す。
我町はかねてより豊かなる自然と農村文化
を広く人々に共有せしめんと図りて「じょん
のび村」を建設茲に完成す。時恰も町制施行
四十年に当たり、交流と発展を期し、町民の
汗したこの施設の一隅に副碑を建立、伝を不
朽にするものなり。
一九九五年九月吉日
高柳町長
樋口昭一郎謹識
加藤僖一書
<注>
● 3行目の※は 「橋」の「木偏」を「冠」に変えた異体字
本ページ冒頭の「北越雪譜」記載の橋柱図参照
● 副碑碑文は 碑文写真に判読が難しい箇所が数箇所あるため 誤りがあり得ます
誤りに気付かれた方は 按針亭管理人までお知らせ下さい
良寛詩碑の裏(碑陰)に 次の詩が刻まれているとのこと
按針亭管理人は 断続的な強い雨が気になったのか 残念ながら写真撮影を失念してしまった
禅師詩句證橋流
流到宮川古渡頭
今日流還一片石
清音長共月輪秋
傳大士云人従橋上過 橋流水不流
庚午仲夏題
日本良寛禅師詩碑 趙樸初
禅師の詩句は橋の流るるを証す
流れて到る宮川古渡(こと)の頭(ほとり)
今日流れ還(かえ)る一片の石
清音長(とこし)えに共(おな)じうす月輪(げつりん)の秋
傳大士(ふたいし)いわく、人、橋上によりて過ぐるに、橋は流れて水は流れず
庚午仲夏題 日本良寛禅師詩碑に題す 趙(ちょう) 樸初(ぼくしょ)
貞観園と橋杭(柏崎市高柳町岡野町)
娥眉山下橋杭が保存展示されている 写能坂と苔に覆われた庭が美しい
撮影:2011-06-28
「貞観園」公式サイト
バス停「貞観園前」で下車すると 上掲最上段の「貞観園の写能坂」があり 駐車場は写能坂の左手右側にある
本ページ全体注
本ページでは、「峨眉山」の「峨」の外に、「娥」、「蛾」、「我」を使っていますが、橋杭に刻まれた文字と良寛詩の真蹟によって使い分けています。
「娥眉山下橋杭」は、「朝鮮半島から流れてきたとの説」があるとのことですが、ここでは、「壮大なロマンのある唐土からの漂着説」に基づきました。
参考文献
- 「沙門良寛」~自筆本「草堂詩集」を読む 柳田聖山著1989年5月初版第2刷 人文書院刊
- 「良寛と峨眉山」 良寛研究第12集 加藤僖一編 1990年12月 良寛研究所刊
- 「良寛の漢詩をよむ(下)」 柳田聖山著 NHKラジオ第2放送「宗教の時間(1999/10~2000/3)」テキスト
- 「良寛~漢詩でよむ生涯」 柳田聖山著 NHKライブラリー120 2000年1月第1刷 日本放送出版協会刊
- 「北越雪譜」鈴木牧之編撰 京山人百樹刪定 岡田武松校訂 岩波クラシックス 1982年7月第2刷 岩波書店刊
- 「北越雪譜」二編巻之四冬 鈴木牧之編撰 京山人百樹[山東京山]刪定 江戸 森江佐七
- 「いしぶみ良寛 続編」 渡辺秀英編著 1997年4月 考古堂書店刊
- 「別冊太陽 良寛」~聖にあらず、俗にもあらず 2008年6月 平凡社刊