友を想う詩 渡し場
友を想う詩 渡し場
文語体 訳詩誕生経緯
新設:2012-10-28
更新:2017-11-01

古城街道沿いヒルシュホルンのネッカー川、向こう岸中央高台に中世の城が
古城街道沿い
ヒルシュホルンのネッカー川
川の向こう岸の中央高台に
中世の城(現在はホテル)
下の写真は、この城を拡大撮影
撮影:2001-06-15
古城街道沿いヒルシュホルンのネッカー川沿い高台の中世の城

「老来五十年、まぶたの詩」と朝日新聞「声」欄で呼びかけた猪間驥一の投書(1956年9月13日掲載)
昭和31年(1956)
9月13日付朝日新聞
東京版)「声」欄掲載の
猪間驥一の投書

「週刊朝日」昭和31年(1956)10月7日号66頁に載った記事見だし部分
週刊朝日昭和31年(1956)10月7日号
に載った記事見だし部分

「渡し場」の原詩「Auf der Überfahrt 」は、ライン川支流のネッカー川が流れるチュービンゲンに生まれ育ったドイツ詩人ウーラント(Ludwig Uhland)によって1823年に作られた。

それから約90年後、明治から大正となった1912年頃、明治20年(1887)から3年間のドイツ留学経験がある新渡戸稲造らが、この詩を「友情はかくありたい」といった趣旨で、講話、雑誌、単行本などを通じ、少年少女、学生、一般人に盛んに紹介した。

戦後においても、新渡戸の影響を受けたと思われる教職者が、学生に語り伝えることがあった。やがて、戦後の混乱が落ち着き始め、後に神武景気といわれるときに、「渡し場」の文語体共訳者の一人となった猪間驥一が、昭和31年(1956)9月13日発行朝日新聞(東京版)の「声」欄に「老来五十年 まぶたの詩」と題して次の投書を行った。

◇老人の日に、一老人の願いをきいていただきたい。次のような内容の詩をご存じ知の方はあるまいか。

◇「渡船に乗って川を越そうとしている老人がある。何十年か前に、彼は親友と連れ立って、同じ渡しを渡ったことがあった。老人のまぶたの裏には、なつかしい亡友のおもかげが、そのかみの数々の思い出につれて浮かんでくる。
『着きましたよ』という船頭の声に、驚いて老人は立上って、渡し賃を払う。一人分の倍額ある渡し賃『船頭さん、それだけとっておいて下さい。お前さんにはお客は一人しか見えなかったろうが、わたしは連れと一緒だったつもりだから』と老人がいった」

◇私は子供のころ、これを少年雑誌か何かで読んだ。そのとき、大きくなって外国語がわかるようになったら、それを読み直そうと思った。そして一、二の外国語を学んで、この詩にめぐり会おうと心がけてきたが、それ以来五十年ついに会えないでいる。子を失い友を失うこと多く、老来、この詩のこころをひしひしと感ずることがしばしばである。これがどこの国のだれの詩か、何の本に出ているか、どなたか教えて下されば幸いである。

この投書に対する反響は大きく、投書者・猪間驥一の元に、直接または朝日新聞社を介して原詩を含む関連資料情報が多数の人々から寄せられた。

朝日新聞(東京版)学芸欄に、投書者・猪間驥一よる『「まぶたの詩」に会うの記』が掲載され、さらに週刊朝日が『詩 人生の「渡し場」 投書欄に咲いた心の花』として特集記事を掲載した。

資料提供者の中に、原詩と自らの訳詩を提供した、当時20才代の小出健(こいで たけし)がいた。小出は週刊朝日に掲載された文語体訳詩「渡し場」の共訳者となった。