新設:2011-02-08
更新:2017-11-01
旧神奈川県本部(日本詩吟学院岳風会認可)
審査課題 27ページ
自然と人生(一節)
徳冨蘆花
家は十坪に過ぎず。庭は唯三坪
誰か云ふ、狭くして且陋なりと。
家陋なりと雖も、膝を容る可く
庭狭きも碧空を仰ぐ可く
歩んで永遠を思ふに足る。
神の月日は此処にも照れば、
四季も来り見舞ひ、風、雨、雪、霰
かはるがはる到りて興浅からず。
蝶児来りて舞ひ、蝉来りて鳴き、
小鳥来り遊び、秋蛩また吟ず。
靜かに観ずれば、宇宙の富は
殆んど三坪の庭に溢るゝを覚ゆるなり。
岩波文庫 緑15-2 「自然と人生」 徳冨蘆花著
1995年12月5日 第77刷発行 119ページ
吾家の富(一)
徳冨蘆花
家は十坪に過ぎず、庭は唯三坪。
誰か云ふ、狭くして且陋なりと。
家陋なりと雖ども、膝を容る可く、
庭狭きも碧空仰ぐ可く、
歩して永遠を思ふに足る。
神の月日は此処にも照れば、
四季も来り見舞ひ、風、雨、雪、霰
かはるがはる到りて興浅からず。
蝶児来りて舞ひ、蝉来りて鳴き、
小鳥来り遊び、秋蛩また吟ず。
靜かに観ずれば、宇宙の富は
殆んど三坪の庭に溢るゝを覚ゆるなり。
<注>アンダーライン箇所は 読みの違いを示す 岩波文庫の原本は 徳富家所蔵の初版本、同第三版の由
解 説
徳富蘆花(1868~1927)は、1894年(明治27)1月、新しい生活に入る決意をして芝桜田町に下宿、同年5月5日原田愛子と結婚、新居は兄蘇峰が借りた赤坂氷川町勝海舟邸内借家のうち、両親が住む棟の2階6畳一間だけであった。
同年7月、畑もある広い勝海舟邸内の別の借家(8畳、5畳半、3畳、2畳、台所、小さな庭)が空き、両親も気に入って転居を希望したが、蘆花の強い希望で蘆花夫妻が転居した(家賃4円50銭)
参照:小説「冨士」第1巻第6章「新夫婦」および第7章「梔子の花の家」
1897年(明治30)1月、蘆花は「どん底状態」からの脱出を図って、両親が住む逗子「老龍庵」に近く 徳富家馴染みの 田越川沿にあった柳屋(当初は北向きの8畳1間、後に閑散期は8畳2間、3畳半、台所)に借間し、1900年(明治33)10月に千駄ヶ谷村原宿に転居するまでの約4年間、柳屋を本拠地として活動した。蘆花が借りた部屋のうち1室(8畳)は国木田独歩が新婚直後の1895年(明治28)11月から翌1896年(明治29)3月まで 借りた東南の部屋だった。
なお、蘆花晩年の作品・小説「冨士」第2巻第1章のタイトルは 「柳屋」を「あらめ屋」とし、「あらめ屋」は旅篭屋時代の屋号が「荒芽(あらめ)屋」であったそうだとしている。 → 「蘆花ゆかりの(逗子)柳屋・あらめ屋と机・椅子~昔と今」ページへ
1898年(明治31)8月、借間の表側1室(8畳)を譲った避暑客・福家安子から聞いた大山信子の哀話をヒントに、同年11月から翌年5月まで「不如帰」を国民新聞に連載。1900年(明治33)1月 大幅改稿の書籍「不如帰」を民友社から刊行、ベストセラーとなり、映画も数多く作られた。披露山麓の「浪切不動」が主人公「浪子」に因んで「浪子不動」と呼ばれるようになり、「不如帰」碑が「浪子不動」下の磯(潮が満ちると海中)に1933年(昭和8)に建った。
上中央写真の碑は、田越川に架かる富士見橋と渚橋との中間、 県道24号沿山側にある。碑の表面は、右碑に「蘆花独歩ゆかりの地」と、左碑に蘆花の「青いくも 白い雲 同じ雲でも わしゃ白雲よ わがまま気がまに 空を飛ぶ」が刻まれ、右碑の「裏面」は蘆花と独歩の作品から柳屋に触れた場面が 碑中央上部の「やなぎ屋」の文字と共に刻まれている。
しかし、一部表面劣化のため読み難いところがあるが、右碑「裏面」碑文を近くの逗子蘆花記念公園内にある「逗子市郷土資料館」がパネルで展示している。
蘆花は、逗子に住んでから国民新聞などに発表した作品を含めて「自然と人生」として、1900年(明治33)8月、民友社から出版。出版に先立ち1900年7月、国民新聞に「自然と人生」の広告を次のように掲載した。
徳富健次郎著『自然と人生』印刷中
題して自然と人生と云ふも、他人の関係を科学的に論ずるにあらず、畢竟著者が眼に見耳に聞き心に感じ手に従って直写したる自然及人生の写生帖の其幾葉を公にしたるものゝみ。」 以上は著者自ら謂う所
自然を主とし、人を客とし、旧稿の粋を抜き、新作の秀を萃めたる小品の記文、短編の小説、無韻の詩とも言ふ可く、水彩の画とも云ふべきもの、無慮百篇を一巻に収む。銷夏の読料には尤も妙ならん。
<注>
広告では百篇とあるが、巻頭「灰燼」と巻尾「風景画家コロオ」除くと、「自然に対する五分時」29篇、「写生帖」11篇、「湘南雑事」47篇の合計87篇であった。
逗子市郷土資料館 逗子市郷土資料館へリンク 写真は 2011-1-27 および 2011-2-1 撮影
吟界で「自然と人生(一節)」として吟じられているのは、「自然と人生」の「写生帖」6番目に掲載された小品「吾家の富」の第一節であり、「断崖」として吟じられるのは、「自然と人生」の「写生帖」8番目に掲載された「断崖」の第一節を吟じやすく要約したもの。
「吾家の富」でいう「吾家」は、蘆花が何処に住んでいたときの家なのか。逗子に移る前に住んでいた赤坂氷川町の勝海舟邸内借家(8畳、5畳半、3畳、2畳、台所、小さな庭)の可能性が大きい。逗子の柳屋では、襖で仕切られる借間(最大時で8畳2間、3畳半、台所)であり、借りた総床面積が最大で約10坪であったが、一軒丸ごと借りていたわけではない。
逗子の田越川に架かる富士見橋近くに両親が住んでいた兄蘇峰の別荘「老龍庵」は、床面積15坪強・敷地約600坪であったといわれるので違うと思われる。氷川町「借家」と逗子「柳屋借間」などを踏まえた架空の「吾家」なのか。なお、現在の世田谷区にある「蘆花恒春園(旧北多摩郡千歳村粕谷356番地)」の地に転居したのが1907年(明治40)2月といわれるのに対し、「自然と人生」の刊行が1900年(明治33)8月であり、「蘆花恒春園」とするのは間違いである。
「自然と人生」に収められた「湘南雑筆」は、逗子での自然観察日記というべきもので、1898年1年間1日も欠かさず毎日自然の見聞を記したものから、選んで載せたものといわれる。
逗子市蘆花記念公園の「『自然と人生』蘆花散歩道」には、『自然と人生』」の「湘南雑筆」から各月の作品一つを選び、ほぼ冒頭部分を記した立札があり、最後に「相模灘の落日(自然に対する5分時)」の立札を読み終わると、「逗子市郷土資料館」の門に辿り着く。 各立札に記された内容は「こちら」へ
「自然と人生」蘆花散歩道 (逗子市蘆花記念公園内) 写真は 2011-1-27 および 2011-2-1 撮影
蘆花恒春園 東京都立「蘆花恒春園」は東京都世田谷区粕谷1丁目の環状8号通り沿い 写真は 2005-10-11 撮影
徳富健次郎墓誌 左上写真の案内板 2005-10-11現在
(この墓に眠る人は、徳富健次郎といい号を蘆花(芦花)と称した。)
1868年12月8日(明治元年10月25日)熊本県水俣市で生れ、父は徳富一敬、号淇水、母は久子、矢島氏の出である。兄に蘇峰徳富猪一郎がいる。芦花の幼時はひよわであったが、少年時代から青年時代にかけて、父や兄から訓育を受け指導されて、その性格が形づくられた。中年以降はすぐれた文人として自立し、その著作は、広く世間に読まれ多くの読者に好まれた。
芦花の妻は愛子、原田氏の出である。夫妻は互いに相たすけ、常に離れることがなかった。しかし、ついに子供には恵まれなかった。伊香保の療養先で、最期に臨んで、兄に後事を頼み、心静かに永眠した。数え60歳である。ときに1927(昭和2)年9月18日のことであった。芦花は生れつき真面目で意思強く妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかった。
また、与えることが多く、愛情をもって人々に接した。文章をつくるにあたっては、さまざまな思いが泉のように湧き出て、つぎつぎと言葉が流れ出るようであった。芦花の生涯は、終始自らを偽らず、思うままに行動し、ひたすら真善美を追究することに努めた人生であった。遺骸は、粕谷恒春園の林の中に持ちかえり埋葬された。これは自身の生前からの願いであり、また粕谷の村人たちの希望するところでもあった。
兄徳富蘇峰65歳 涙をぬぐいつつ書く
この墓誌の原文は、蘆花死去直後に、兄徳富蘇峰によって漢文で書き記され、石盤に刻まれて墓におさめられた。原文は記念館に展示されている。
徳富愛子墓誌 上中央写真の案内板 2005-10-11現在
(ここに葬られているのは、芦花徳富健次郎の夫人愛子である。)
女史は原田氏の出で、名は藍子、後に愛子と改めた。1874(明治7)年に熊本県菊池(隈府)市に生れ、長じて東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に学んだ。ある日、私のところへ兄原田良八が同行して来た。一見して弟の妻に好ましいと思い、弟の意向を聞き、老父母にも相談し、卒業後婚姻が成立した。
女史は才色ともにめぐまれ、態度はつつしみ深く、精神は、しっかりして動揺することがない。夫婦生活34年間、心は一つとなり、相愛し、相たすけた。芦花が大をなし得たのは、女史の内助によるところが大きい。
芦花死去後、20余年をひとりで生きて、自身の病弱をおして、芦花の遺著を整理刊行し、また後々の計画を定めた。すなわち10回忌に恒春園の土地と邸宅一切を東京都に寄贈し、芦花記念公園としたのである。
女史は1947(昭和22)年2月20日、熱海の仮の住居で永眠した。数え年74歳。遺骨は芦花の左隣りに葬られた。
義兄 徳富蘇峰85歳 記す。
墓誌の原文は漢文で書かれ、記念館に展示されてあるが、原文を刻んだ石盤は50日祭のとき墓におさめられたという。