新設:2013-06-03
更新:2017-11-01
撮影:2013-06-02
沼津千本松原の松と富士山 海側に築かれた護岸堤防が 牧水が住んでいた頃とは異なる
若山牧水旧居跡
若山牧水旧居跡 (上掲中央写真解説内容)
歌人若山牧水が、千本松原の景観に強く心ひかれ、沼津に移住してきたのは、大正九年(1920)満三十四歳の夏であった。
大正十四年、ここに五百坪の土地を求めて居宅を新築し、沼津永住の念願を果たした。
建物は、木造二階建て七十九坪で全十一室あり、牧水が夢に描いていたとおりのものでだった。
牧水は、千本松原を愛したように、この居宅をひじょうに愛していたが、この家には、わずか三年暮らしただけで、昭和三年(1928)の秋、四十三年の短い生涯をこの地に閉じている。
牧水の建てた家は、惜しくも昭和二十年の戦災で焼失したが、沼津市若山牧水記念館に五十分の一復元模型(ミニチュア)としてその全容が展示されている。
平成十年六月三十日
沼津市教育委員会
若山牧水歌碑
若山牧水歌碑 (上掲中央写真解説内容)
幾山河 こえさりゆかば 寂しさのはてなむ國ぞ けふも旅ゆく 牧水
歌人若山牧水(本名繁)は、明治十八年(1885)宮崎県にうまれた、旧制延岡中学時代から短歌に親しみ、早稲田大学在学中に中國路を旅し、この「幾山河」の歌を作った。
二十四歳のときに出版した歌集「別離」が歌壇に認められ一躍世に出た牧水は、大正九年(1920)夏、一家を挙げて沼津に移住した。
その後 千本松原の景観に魅せられ、この松原にほど近い地に新居を構えた、旅と自然に親しみ、酒をこよなく愛した牧水は調べの美しい多くの名歌を残し、昭和三年(1928)九月十七日四十三歳で永眠した。
墓所は この近くの千本山乘運寺にある。
この歌碑は、全國で最初の牧水歌碑として昭和四年七月に建設された。
沼津市
若山牧水記念館
若山牧水の墓
若山牧水の墓域前に建っている2つの碑は、左が牧水の歌碑「聞きゐつつたのしくもあるか松風の今は夢ともうつつともきこゆ」、右が喜志子夫人の歌碑「故里の赤石山のましろ雪わがゐる春のうみべより見ゆ」であり、墓域には、喜志子夫人、長男・旅人も眠っている。
33年忌を迎えた昭和35年(1960)9月17日の牧水祥月命日に、若山旅人と牧水会が、牧水墓域に「牧水略譜」碑を建てている。
乘運寺の住職は、沼津牧水会(公益社団法人沼津牧水会)の理事長を務めており、沼津牧水会は沼津市から委託されて「沼津市若山牧水記念館」の管理・運営を行っているとのこと。
「沼津市若山牧水記念館」の初代館長は大悟法利雄(牧水高弟)、2代目館長は若山旅人(牧水長男)であったが、3代目館長は榎本篁子(牧水長男旅人長女)とのこと。
2013-6-3記す
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