構成吟例示
吟詠詩歌 構成吟例示
石童丸
新設:2011-03-03
更新:2017-11-01

        石童丸
                  松口月城
    (今様) 麓の母を案じつつ
           心細道ただ一人
         すげの小笠を傾けて
           分け入る峰や父いずこ
                   (玉宗)                      
     訪西尋東不得父  夕陽沈山已蒼然
    
      ほろほろと 鳴く山鳥の声きけば
        父かとぞ思う 母かとぞ思う
                   (行基)    
     無明橋畔逢僧侶  右手花桶左數珠
     慇懃撫肩情殊深  此僧或莫是吾父
     縋袖欲語無限思  道心聽之抉肺腑
     嗟佛道是耶恩愛非 熱涙滂沱落法衣
     怱聞暮鐘無常響  杜鵑一聲啼血飛
     
    (今様) 尋ぬる父とは知らなねども
           互に通う親と子の
         絆紲ひかるる後ろ髪
           麓をさして下りゆく
                   (玉宗)

石童丸
松口月城
(今様)
(ふもと)(はは)(あん)じつつ (こころ)細道(ほそみち)ただ(ひと)()
すげの()(がさ)(かたむ)けて ()け入る(みね)(ちち)いずこ
                 (玉宗)
西(にし)()(ひがし)(たず)ねて(ちち)()
    夕陽(せきよう)(やま)(しず)みて(すで)蒼然(そうぜん)

  ほろほろと()山鳥(やまどり)(こえ)きけば
     (ちち)かとぞ(おも)う (はは)かとぞ(おも)
                 (行基)
()(みょう)橋畔(きょうはん)僧侶(そうりょ)()
    (みぎ)()花桶(はなおけ)(ひだり)(じゅ)()
慇懃(いんぎん)(かた)()でて(じょう)(こと)(ふか)
    ()(そう)(あるい)()()(ちち)なる(なか)らんや
(そで)(すが)(かた)らんと(ほっ)()(げん)(おも)いを
    道心(どうしん)(これ)()いて(はい)()(えぐ)らる
(ああ)仏道(ぶつどう)()恩愛(おんあい)()
    熱涙(ねつるい)(ぼう)()として(ほう)()()
(たちま)()()(しょう)()(じょう)(ひび)
    ()(
けん
)
一声(いっせい)()()いて()
(今様)
(たず)ぬる(ちち)とは()らねども (たがい)(かよ)(おや)()
絆紲(きずな)ひかるる(うし)(がみ) (ふもと)をさして(くだ)りゆく
                 (玉宗)

【通釈】

室町時代のはじめのこと、筑前・筑後・肥前・肥後・大隅・薩摩六ヶ国の守護職であった加藤左衛門繁氏は、世の無情をはかなんで出家し、紀州高野山にこもり、念仏修行の日々を送っていた。

残された繁氏の子石童丸は、物心つくに従い父恋しく、遂に十四歳のとき母と共に筑紫の城を出で、父を求めてはるばると高野口にたどり着いたのである。

だが、高野山は女人禁制であるために、母親を麓に残した石童丸は、ただ一人で山に登り、あちらこちらと父を探しあるいたが目指す人には会えなかった。

ようやく夕日が沈み辺が薄暗くなって来た頃、無明橋のほとりで一人の僧侶に出会った。僧侶に問いかけると、「何処から来たのか、何処へ行くのか」などと肩をなでながら優しくいたわるように話しかけるので、石童丸は、もしかしたら、このご坊は自分の父親ではないかと思うのであった。

問われるままにすべてを語った石童丸は、遂にたまりかねたように、僧侶の袖にすがりついて「もしやあなたさまは…」というのであった。

この言葉を聞いて肺腑をえぐられる思いとなった。それも其の筈、この僧侶は今は刈萱道心といい、かっての繁氏だったのである。

道心の心は千々に乱れるが今は仏門に在る身、涙はとめどもなく流れて衣の袖をぬらすのであったが、恩愛の情と仏教の戒律と、両方を立てることはできず、折柄きこえる夕暮れの鐘の音に道心は親子の情を断ち切って、ねんごろにさとして石童丸を下山させたのである。

この別れを悲しむかのように、ほととぎすが一声悲しげに血を吐くような声で鳴き立てていった。


石童丸が麓に下って見ると母は没していた。この為に石童丸は再び山に登って刈萱道心に会うが、刈萱はここではじめて親子の名乗りをあげ、共に菩提を弔ったのである。

【出所】
   愛吟集104頁 新愛吟集86頁

無明橋(むみょうのはし)
高野山奥之院御廟橋(みみょうのはし)
撮影:2009-3-18


上の漢詩にある「無明橋(むみょうのはし)」とは、高野山の奥之院弘法大師御廟(ごびょう)に最も近い橋のことで、古来より「御廟橋(みみょうのはし)」というそうです。

高野山「御廟橋」手前の説明板に、右のように記されています。


この橋の橋板三十七枚は、金剛界三十七尊を表わし、それぞれの裏面にその一々の種子(梵字)が刻まれている。

古くから、お大師様が、参詣する者をこの橋までお迎え下さり、帰りはお見送り下さると信じられており、僧侶がその行き帰りに、必ず御廟に向って合掌礼拝するのも、そのためである。
学文路苅萱堂(延命山西光寺) <和歌山県橋本市学文路542> 撮影:2015-4-15
延命山西光寺本堂
延命山西光寺本堂
昭和59年(1984)再興
西光寺、学文路苅萱堂全景
左奥に西光寺本堂 中央~右に苅萱堂
写真手前方向が高野山への高野街道
学文路苅萱堂
学文路苅萱堂(西光寺所属)
左方向に西光寺本堂(左端写真)
苅萱堂左手前の説明板
苅萱堂左手前の説明板


西光寺入口右手前の説明板
西光寺入口右手前の説明板


左2写真の説明板のうち、下写真の「橋本市教育委員会、学文路区、学文路苅萱堂保存会」による
平成16年(2004)3月作成の説明板に、次のように記されている。
 橋本市指定文化財(第59号)
 平成元年3月22日指定
苅萱道心(かるかやどうしん)・石童丸(いしどうまる)関係信仰資料

石童丸(苅萱)物語は高野山の女人禁制の掟から生まれた悲劇で、中世以後、高野聖の一派である萱堂(かやどう)聖(ひじり)によって全国に広められ、江戸時代には、説経節や浄瑠璃、琵琶歌となって広く世に知られた。高野山の参詣口に位置する学文路(かむろ)の地は、この物語の舞台として、また、高野参詣の人々への物語の唱導の場として賑わった。

石童丸親子3人像の写真
左から 石童丸 苅萱道心 千里ノ上
こうして庶民信仰化していった結果、苅萱道心、石童丸、千里(ちさと)ノ前(まえ)、玉屋主人の像が造られて、堂内に安置されるようになった。

また、参詣人には、苅萱物語を素材としたお札が配られ、これに因んだ絵馬などが奉納された。さらに、学文路苅萱堂では、絵解きが行われたとみられ、石童丸の守刀、人魚、夜光の玉、銘竹など、この信仰にかかわった品々が今に残されている。

苅萱の旧跡は、高野山や善光寺にも残るが、学文路の地は、高野参詣口にあたること、物語の舞台となったことから、こうした資料がこの地に残され、信仰されてきたのであろう。いずれにしても、苅萱の信仰が残したこれらの資料は、高野山とのかかわりの中で、当地域の歩んできた歴史を物語る貴重な資料ということができる。

石童丸の母「千里ノ前」の墓
石童丸の母「千里ノ前」の墓
苅萱堂手前右側にある
西光寺入口手前右に建つ句碑3つ
西光寺入口手前右に建つ句碑3つ
橋本新聞 2013-3-25号によると、右上へ

左写真の3つの句碑はそれぞれ

中央の句碑
「道心のおこりは花のつぼむ時 去来」
右端の句碑
「冬垣の人懐かしき椿かな 木城」
左端の句碑
「悲話残す千里の塚も虫浄土 蘇風」

とのこと
標石「旧玉屋屋敷跡」
標石「旧玉屋屋敷跡」
右は自動車用、左は歩行者用の道
標石「旧玉屋屋敷跡」
左写真標石「旧玉屋屋敷跡」アップ
下部に「コレヨリ下ヘ四十米」の刻字
「石童丸物語 玉屋宿跡」の標柱
「石童丸物語 玉屋宿跡」の標柱だが
下部が葉に覆われて見えない
紀ノ川に架かる橋本橋
紀ノ川の橋本川との合流付近で
紀ノ川に架かる橋本橋
現橋本橋近くの紀ノ川北岸東家渡場に建っていたという「旧高野街道の大常夜燈籠」
橋本橋近くの紀ノ川北岸「東家渡場」に
あったという旧高野街道の大常夜燈籠
学文路駅ホームに設置の駅案内板
学文路駅ホームに設置の
駅名案内板
高野山 苅萱堂(密厳院所属) <和歌山県高野町高野山478> 撮影:2015-04-15
(高野山)苅萱堂
(高野山)苅萱堂
石童丸の母(千里ノ上)の墓
石童丸の母(千里ノ上)の墓
苅萱堂の本院「密厳院」
苅萱堂の本院「密厳院」
「苅萱堂」内展示の石童丸物語絵解きの一部
「苅萱堂」内展示の
石童丸物語絵解きの一部
「苅萱堂」内展示の石童丸物語絵解きの一部
「苅萱堂」内展示の
石童丸物語絵解きの一部
「苅萱堂」内展示の石童丸物語、石童丸と母(千里ノ上)の人形
「苅萱堂」内展示の石童丸物語
石童丸と母(千里ノ上)の人形
西光寺(刈萱山寂照院) <長野市石堂町1398>全国善光寺会会員 撮影:2013-05-13
西光寺(善光寺表参道からの入口)
西光寺(善光寺表参道からの入口)

西光寺(本堂)
西光寺(本堂)
刈萱上人親子之像
刈萱上人御親子之像

  【刈萱上人御親子之像の解説】

この像は、顔も知らなぬ父刈萱上人を尋ねて高野山に登った幼ない石童丸が無明の橋にて父上人と対面した情景を銅像にしたものです。
「かるかや」の話しは謡曲「刈萱」や説経節「かるかや」あるいは浄瑠璃など、中世以来多くの芸能で語り伝えられてきた有名な悲劇ですが、最も感動的なのは親子の対面を果たしながら、父が子に親であることを告げぬこの場面です。
「はるばると 尋ねし我が子を前にして 父と名のれぬ はかなさよ」碑が、親子像台座左に
刈萱塚
刈萱塚

  【刈萱塚の解説】

   刈萱塚

鎌倉時代より、信濃七塚の一つとして七百余年を経たる塚なり
   右 石童丸之墓
   中 刈萱上人之墓
   左 千里御前之墓

往生寺(安楽山刈萱堂) <長野市往生寺1334>全国善光寺会会員 撮影:2013-05-13
刈萱堂(本堂)
刈萱堂(本堂)

【長野市による「往生寺」の説明】

鎌倉時代の仁平(1151-1154)の頃、九州博多の大名であった加藤佐衛門尉重氏が、世の無常を感じ、家を捨てて、高野山に登り、寂照坊と名を変えて修行していました。世に言う刈萱上人です。
そこへ、その子石童丸が尋ねてきて、弟子入りを迫りました。刈萱上人はやむなく許したものの、親子の情愛に流され、修行がおろそかになることを怖れ、ここ信濃の善光寺に移り住み、83才で生涯を閉じました。
往生寺は、刈萱上人の最後の修行地としての遺跡です。
「刈萱一枚法語」碑
「刈萱一枚法語」碑

【「刈萱一枚法語」の内容】

晝あれば必ず夜ありと知るがゆえに燈燭の備をなす 暑あれば必ず寒ありと知るがゆえに秋の碪の音たへず 老の眠りを驚かせども 生あれば必ず死ありといふことは知るや知らずや 一向なんの用意もなし こはいかなる心の怠りにや 無常迅速なり 只今も知れず 死期の到来せし時いかんせんや もし吾が言を用ひて死の備をせんと欲せば 何時にもあれ 只今命おわると思ひて 萬事を放下し 己が耳にきこふるほど 高からず低からず 南無阿弥陀佛と十念すべし 時と所と不浄をえらばず 唯わすれさるを第一とす ゆめ/\ゆめおこたるべからず
 建暦三年正月二十四日
            等阿弥陀佛
開山刈萱法師御廟
開山刈萱法師御廟

【「往生寺」の案内書に記載の由来】

九州博多の城主、刈萱加藤左衞門尉重氏が出家して等阿法師と名のり、妻子から離れて高野山に隠遁して修行中のところへ、子の石童丸がたずねて来て弟子入りを迫ったので止むなく許したが、親子の情愛にひかれて修行のおろそかになることを怖れ、善光寺に参篭して如来よりこの地を授かり、83歳で寂した。生前、彫刻して遺しておいた地蔵尊を、後から慕ってきたきた石堂丸も、それを手本として同じものを刻んだ。これら二体の仏像を刈萱親子地蔵尊という。当山は父の刈萱上人の終焉の地で、刈萱堂往生寺と称す。堂内でその縁起を説明する絵解きは、今や貴重な教化風俗となっている。
(1)善光寺の西北「湯福神社」角、「かるかや道」道標の左を直進
(1)善光寺の西北「湯福神社」角
「かるかや道」道標の左を直進
(2)展望道路を横切って直進、緩やかな登り道
(2)展望道路を横切って直進
緩やかな登り道
(3)突き当たりが「往生寺」、正面階段を登る
(3)突き当たりが「往生寺」
正面階段を登る