和歌例示
吟詠詩歌 和歌例示
諏訪湖畔
新設:2010-05-27
更新:2017-11-01


和歌「諏訪湖畔」歌碑(柿蔭山房)
柿蔭山房(島木赤彦住居)庭奥で
諏訪湖に向かって建つ 和歌「諏訪湖畔」歌碑

   
          諏訪湖畔    島木赤彦
        みづうみの
             氷は解けて なほ寒し
          三日月の影
                  波にうつろふ

【通釈】
諏訪湖の張り詰めた氷は解けているが、まだ寒さは厳しい。三日月が湖面の波に冴え渡る影を映している。
【出所】
吟詠教本和歌篇(下巻)88頁

島木赤彦住居(柿蔭山房・赤松・胡桃)
和歌「諏訪湖畔」の作者・島木赤彦は、明治9年(1876)、長野県上諏訪町(後年の近代吟詠の祖・木村岳風生家に近いところ)で生まれ、大正15年(1926)胃がんのため亡くなった。
長野師範卒業後、小学校教員をしながら歌人として活躍し、大正3年上京後は「アララギ」編集に専念、大正期を代表する歌人である。
島木赤彦は、太田水穂、伊藤長七(寒水)とは長野師範同期の親しい間柄であった。伊藤長七(寒水)は木村岳風の恩人の一人といわれる。
撮影:2010-5-12
柿蔭山房(島木赤彦住居)
柿蔭山房(島木赤彦住居)
赤彦愛惜の赤松(柿蔭山房)
赤彦愛惜の赤松(柿蔭山房)
柿蔭山房(島木赤彦住居)
柿蔭山房(島木赤彦住居)
「柿蔭山房」入口案内板
「柿蔭山房」入口案内板
下諏訪町指定文化財 建造物
島木赤彦住居(柿蔭山房・赤松・胡桃)
  下諏訪町指定文化財 建造物  島木赤彦住居(柿蔭山房・赤松・胡桃)

赤彦は明治30年久保田家の養嗣子となり、大正15年3月死去迄この家を根拠に生活したが、大正7年東京のアララギ発行所から帰郷以来ここで起居、自ら「柿蔭山房」と命名した。間口8間半、奥行5間半、士族の家作りとしても評価が高い。
書斎は西向き8畳の上座敷であったが、冬は寒く 夏は暑かったので大正14年東南の一部に日当りのよい書斎を新築した。
庭の赤松は樹齢300年余、目通周2米 又門口の胡桃は樹齢130年余、共に赤彦の特に愛惜した老木である。なお津島神社前に歌碑、裏山の中腹に赤彦と夫人不二子の墓がある。
       雪ふれば山より下る小鳥多し
              障子の外に日ねもす聞ゆ  赤彦

    昭和57年3月26日        下諏訪町教育委員会
赤彦記念館展示室入口
赤彦記念館展示室入口
赤彦像(赤彦記念館前)
赤彦像(赤彦記念館前)
赤彦記念館外観(諏訪湖畔)
赤彦記念館外観(諏訪湖畔)
赤彦誕生地記念の童謡碑
撮影:2010-10-05
【童謡碑(表)に刻された童謡】

山を下った良寛様は
村の子どもと 鞠ついてゐたが
山に帰った良寛さまは
寺に一人で寂しかな
          赤彦

角間天神社鳥居
角間天神社鳥居
島木赤彦誕生地記念童謡碑
島木赤彦誕生地記念童謡碑

上諏訪駅から国道20号を茅野方面に進み、県道40号起点の元町信号を渡ってすぐ(諏訪清陵高校入口標識より手前)、左側に角間天神社鳥居が国道20号に面してある。
その鳥居の下の細い道を数十メートル進むと、赤彦誕生地記念児童遊園地となり、児童遊園地の右奥に童謡碑が建っている。
(参照:右写真)
【童謡碑(裏)に刻された説明】

この角間町4296番地は島木赤彦先生(久保田俊彦)が明治9年12月17日塚原浅茅四男として生まれたところであります 昭和30年10月 町の人たちの心もちで児童遊園地となりました いま記念のため先生の自筆を石にしるします
 昭和31年9月
  島木赤彦先生誕生地記念碑建立会
島木赤彦誕生地記念児童遊園地
島木赤彦誕生地記念児童遊園地
島木赤彦と伊藤長七
島木赤彦(旧姓塚原俊彦)は、同郷の伊藤長七(近代吟詠の祖・木村岳風の恩人の一人)と一緒に、明治27年(1894年)に長野師範に入った。共に竹馬の友ともいうべき間柄であったが(矢崎秀彦著「寒水伊藤長七伝」参照)、伊藤長七は何故か大正15年3月29日の赤彦の葬儀に参列していない。恐らく東京府立五中校長として何か特別の事情があって参列できなかったと思われるが、長七には赤彦追悼歌9首がある。そのうち4首を紹介したい(前述「寒水伊藤長七伝」参照)。

  夕さればうみのあなたにうかぶ灯の
        靜かなる心亡き人を思ふ
  うみぞひのかきのもみじの岡の辺に
        みたまよとはに何をかも思ふ
  信濃路に高木の里のいなほたれて
        道行く人よ何をかなしむ
  思ひやる信濃高原道遠し
        帰らぬ君の道更に遠し

なお、赤彦の「諏訪湖畔」歌碑は、斎藤茂吉書による「水海之冰者等計而尚寒志三日月乃影波爾映呂(※)布」が長野県富士見町富士見公園にあるとのことで、その拓本が下諏訪町(西高木10616-111)の赤彦記念館展示室に展示されている。
 (※)「呂」は「口」を2つ上下に記した「甲骨文字」で書かれている。→参考サイト:富士見町「高原のミュージアム」