若山牧水(1885~1928)は、喜志子夫人が長男旅人出産後体調が優れず医師から転地療養を勧められ、大正4年(1915年)3月に現横須賀市長沢の川端の家(斎藤松蔵方)に移り住んだ。翌大正5年6月、川端の家の都合により同所上の納屋(谷重次郎方)に転居した。風光明媚、気候温暖な長沢での静かな明け暮れのなかで、喜志子の健康は次第に回復し、大正5年11月には長女みさきが生まれた。地域の人々との温かいふれあいもあって喜志子の日常も順調に進むようになり、牧水一家は大正5年12月28日東京小石川に引揚げていった。 和歌「白鳥は」歌碑は、夫婦歌碑とも呼ばれており、裏面(右下写真)には喜志子が長沢に住んでいるときに詠んだ歌「うちけぶり 鋸山も 浮び来と 今日のみちしほ ふくらみ寄する」が「大正四年秋 北下浦にて詠む」を添えて刻まれている。 なお、牧水の歌「白鳥は」は、明治40年12月の「新生に」発表されたものであるが、牧水は23才の学生歌人であった。夫婦歌碑左手に牧水歌碑「海越えて 鋸山は かすめども 此処の長浜 浪立ちやまず」が横須賀市による若山牧水紹介板を挟んで建っている。 本欄説明は、当該横須賀市の牧水紹介板などを参考にさせていただいた。 (以下の写真は、2010-11-28に撮影)
サイト「二木紘三のうた物語」では メニューで「サ行の歌」を辿って 古関裕而作曲の「白鳥(しらとり)の歌」がmp3で聴くことができます。藤山一郎が唄った作品です。一番が「白鳥」、2番と3番に次の牧水の作品が続きます。 「いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐ふるや」 「幾山河(いくやまかわ) 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく」
若山牧水夫婦歌碑がある長沢海岸から長沢川と国道134号の反対側、北下浦行政センター手前地続きの一段高い処に、長岡半太郎記念館・若山牧水資料館(横須賀市長沢2-6-8)がある。この記念館と周辺は、長岡半太郎が明治42年(1909年)、横須賀市(当時は三浦郡北下浦村)津久井の森崎家のはなれ家でひと夏を過ごし、風光明媚、気候温暖な北下浦海岸が気に入り、翌年長沢の農家を土地付きで購入、昭和25年までの40年間、別荘として使用していた処だという。 記念館の建物は、昭和56年(1981年)9月に、京浜急行電鉄が偉大な物理学者故長岡半太郎博士の業績を永く顕彰するため、長岡博士が学問研究や憩いの場として長い間住まわれた別邸を復元して横須賀市に寄贈したものという。館内には、長岡半太郎博士と歌人若山牧水を顕彰するための資料が展示されている。
若山牧水資料館に展示されている写真・資料などを基に、歌碑「白鳥は」建立の経緯を紹介します。 牧水が下浦を訪れたのは、妻喜志子の病気療養のためであったが、当時、下浦で唯1人の医師・田辺久衛氏が牧水一家の主治医であった。牧水は随筆に「親切な土地のお医者」と評して、知る人もいない下浦で最も信頼していたひとりであった。父久衛医師亡きあとの医業を継いだ田辺秀久医師は、早くから風光明媚な下浦海岸に牧水歌碑建立を志し、昭和26年1月に「若山牧水歌碑建設趣意書」を作成した。しかし、このあと秀久医師は病床に臥し、この計画は断念せざるを得なくなった。その後、横須賀観光協会が秀久医師の志を引継ぎ、昭和28年11月3日(文化の日)、同協会の手により完成除幕された。 下に掲げる写真は、歌碑「白鳥は」除幕式当日の喜志子夫人等関係者と、歌碑建立直後と10年後の歌碑写真である。その後、歌碑建立地海岸が潮流の変化で浸食されるようになったため、護岸工事着手と共に長沢川の反対側に移設された。2000年(平成12年)頃までは歌碑の傍に東屋とわずかに樹木もあって歌碑建設当時の面影が遺っていた。