【作者】 元永元年(1118)~文治6年(1190)、俗名佐藤義清、円位とも号した。もと鳥羽院北面の武士、23歳で出家、高野山を中心に修行。歌学書に西公談抄、歌集に山家集・聞書集など、自歌合に御裳濯河歌合等がある。自然に愛情を寄せつつ人間界への執着断ちきれぬ心情を自由な表現で詠い上げた。 (出所)吟詠教本和歌篇(上巻)123頁
【参考】 山家集(470)には「秋、ものへまかまりける道にて」と詞書あり、所用外出の途次であろうか、沢辺の静けさを突然破って鴫が飛びたつ。一瞬間、静けさが鴫の羽音で破られたかと思うと、忽ち再び静寂が戻る。秋の夕暮の深い寂寥感。文治5年(1189)御裳濯河歌合十八番右歌で、判者俊成は「心幽玄に姿及び難し」と評する。 この歌は「寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮」(寂連)、「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」(定家)と並んで『新古今集』に採られ、江戸初期頃から「三夕の歌」と称せられて来た。 (出所)吟詠教本和歌篇(上巻)123頁
鴫立庵(しぎたつあん) 寛文4年(1664年)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695年)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。 現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。 崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に”著盡湘南清絶地”と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びています。 こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮 (西行法師)
現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があります。庵室については大淀三千風(おおよどみちかぜ)(1700~1750)が建てたもの、俳諧道場については三世鳥酔(ちょうすい)>が明和2年(1765)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられます。 鴫立沢には西行法師が鴫立沢を詠んだ地という言い伝えが室町時代よりありました。寛文4年(1664)、崇雪(そうせつ)がこの地に草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建て、その標石に《著盡湘南清絶地》と刻んだことから、《湘南》の名称発祥の地として注目されています。 平成22年3月 大磯町教育委員会 <注> 上記説明では、大淀三千風は1700~1750年の人となっていますが、一般的には1639~1707年と理解されているようです。鴫立庵見学時(2011-1-13)に、受け取ったと記憶する下欄【鴫立庵案内書】の大淀三千風の解説欄には、元禄8年(1695年)の頃、鴫立庵に入庵したとなっています。1700~1750年が正しいとものすると生まれる前に鴫立庵に入ることとなります。
こよろぎの浜 門前を流れる谷川は、すぐ右折して沢となり、沢の水はやがて渚近い砂地に吸い込まれて消えますが、このあたりの沢が鴫立沢で、海を控えた砂浜は「こよろぎの浜」と呼ばれています。 『万葉集』に「相模路のよろぎの浜のまなごなす児らはかなしく思はるるかも」と歌われ、昔から景色のよい海岸として知られていました。今も防風林の松原や、広々とした砂浜が、美しい海岸風景を形作り、晴れた日には沖に大島が見えます。
西行法師 西行法師がこのあたりの海岸を吟遊して、「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」という名歌を残したことは、史上にも名高い語り草となっています。その歌によまれた鴫の立つ沢が、果してこの附近の地名であったかどうかは、学問的に明らかではありませんが、そのような言い伝えは、すでに古く足利時代からあって、西行が大磯の鴫立沢なる場所で、右の歌を詠じたことは、動かし難い口碑になっています。
鴫立庵の創設 今日に古跡として標識の立てられている鴫立沢は、昔の沢らしい面影が残り、しかも景色の最もすぐれている地点を、西行法師を記念する為に、後人が選んで、それと名づけたものです。それは寛文4年(1664年)(万治元年ともいう)の頃のことで、今を去る三百年余の昔に当たります。当時小田原の崇雪という人が、石仏の五智如来像をこの地に運んで、草庵を結び、始めて鴫立沢の標石を建てたといわれます。その場所が、今日の鴫立庵であり、五智如来の石像(後世修復せしか)も、鴫立沢の標石も、庭内にそのまま残っています。五智如来とは、釈迦、阿弥陀、大日、薬師、宝勝(宝生)の五仏をいい、その像は庵の後の丘の上に、東面して並んでいますが、最初はこれを本尊として、西行寺などを作るのが目的だったといわれています。
大淀三千風 その後三十年程たって、元禄8年(1695年)の頃、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風が、庵を再興して入庵しました。これが鴫立庵第一世の庵主であります。その以前にも崇雪その他の人々が庵に住んでいたようですが、始めて庵室らしい形となったのは、三千風の苦心経営によるもので、三千風が第一世として庵史に記録されています。その後は鳥酔・白雄・葛三その他有名な俳諧師が跡を継ぎ、今日の二十二世現庵主まで続いているのであります。