和歌例示
吟詠詩歌 和歌例示
軽皇子 安騎の野に宿る時に 柿本朝臣人麻呂の作る歌(東の野)
新設:2010-12-04
更新:2017-11-01

(かるの)皇子(みこ)安騎(あき)()宿(やど)(とき)に、
柿本(かきのもとの)(あそ)()(ひと)麻呂(まろ)(つく)(うた)(ひむがし)の野)

柿本(かきのもとの)(ひと)麻呂(まろ)
(ひむがし)の 野にかぎろひの

    立つ見えて

    かへり見すれば

      月かたぶきぬ


軽皇子、安騎の野に宿る時に、
        柿本朝臣人麻呂の作る歌
      (東の野)
                  柿本人麻呂
    東の 野にかぎろひの
       立つ見えて
       かへり見すれば
           月かたぶきぬ

【通釈】
東方の野に、あけぼのの光のさすのが見えて、ふりかえってみると、(西の方に)月は傾いている
【出所】
万葉集 巻1-48 吟詠教本和歌篇 (上巻)18頁

参考文献
【万葉集 巻1-45~49】
『万葉集釋注 一』 伊藤博著 集英社1996年2月15日第3刷発行」 148~152頁の一部 を引用
<釈文>
今は亡き草壁皇子の子でのちに第42代文武天皇となる軽皇子が、宇陀の山野、安騎の野に遊猟したのは、持統6年(692)の冬のことであったらしい。持統3年4月13日にこの世を去る以前、草壁皇子は人麻呂たちを従えて安騎野遊猟に興じたことがあった。その同じ野で猟を行ない、父草壁を追懐するのがこのたびの遊猟の目的であった。軽皇子10歳。人麻呂もここにまた供奉して、次の一群の歌を詠んだのである。

番号 原文 本文(書き下し文) 釈分(通釈)
詞書 輕皇子宿( )于安騎野時柿本朝臣人麻呂作( ) (かるの)皇子(みこ)安騎(あき)()宿(やど)りますに、柿本朝臣人麻呂が作( )
長歌
45
( )隅知之 吾大王 高照 日之( )子 神長柄 神佐備世須登 ( )敷為 京乎置而 隠口乃 泊( )山者 真木立 荒山道乎 石( ) 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 ( )限 夕去来者 三雪落 ( )騎乃大野尓 旗須為寸 四能( )押靡 草枕 多日夜取世須 ( )昔念而 やすみしし ()大君(おほきみ) (たか)()らす ()御子(みこ) (かむ)ながら (かむ)さびせすと (ふと)()かす (みやこ)()きて こもりくの (はつ)()(やま)は 真木(まき)()つ (あら)(やま)()を (いは)() (さへ)()()しなべ 坂鳥(さかとり)の (あさ)()えまして (たま)かぎる (ゆふ)さり()れば み(ゆき)()る 安騎(あき)(おほ)()に (はた)すすき ()()を押しなべ (くさ)(まくら) (たび)宿(やど)りせす いにしへ(おも)ひて ( )まねく天下を支配せられる我が大君、天上( )く照らしたまう日の神の皇子は、神のままに( )る舞われるとて、揺るぎなく治められている都さえもあとにして、(こも)()の泊瀬の山は真木の( )り立つ荒々しい山道なのに、その山道を( )や遮る木々を押し伏せて、朝方、坂鳥のように( )々とお越えになり、光かすかな夕方がやってくると、み( )降りしきる安騎の(あら)()で、旗すすきや( )竹を押し伏せて、草を枕に旅寝をなさる。過ぎしいにしえのことを( )( )
短歌
46
( )騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念( ) 安騎(あき)()に 宿(やど)旅人(たびひと) うち(なび)
()()らめやも いにしへ(おも)ふに
こよい、( )騎の野に宿る旅人、この旅人たちは、のびのびとくつろいで( )ることなどできようか。いにしえのことを思うにつけ( )
短歌
47
( )草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曽来( ) (くさ)()る (あら)()にはあれど (もみじ)()の ()ぎにし(きみ)が (かた)()とぞ() (いお)(くさ)刈る荒れ野ではあるが、(もみじ)()のように過ぎ去った( )き皇子の形見の地として、われらはここにやって( )たのだ。
短歌
48
( ) 野炎 立所見而 反見為者 月西( ) (ひむがし)の ()にはかぎろひ ()()えて かへり()すれば (つき)西(にし)(わた) 東の野辺には(あけぼの)の光がさしそめて、振り返って見ると、( )は西空に傾いている。
短歌
49
( )雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者来( ) ()(なみし) 皇子(みこ)(みこと)の (うま)()めて
(かり)()たしし (とき)()(むか)
( )並皇子の命、あの我らの大君が馬を勢揃いして( )に踏み立たれたその時刻は、今まさに到( )した。
<釈文>
亡き皇子が猟を踏み立てたかっての一瞬は、そのまま現身の皇子が猟を踏み立てる現在の一瞬と重なっている。「古」(父)の行為および心情と「今」(子)の行為および心情とがここで重なり、亡き皇子への追慕は完全に果たされたのである。

追慕の達成は、軽皇子がすべてにおいて父草壁になりかわったことを意味する。その草壁は単なる皇子ではない。歌そのものがいうように、「日並皇子の命」、つまり日(天皇)に並ぶ皇子なのである。ということは、「み狩立たしし時は来向ふ」とうたい納められた時、軽皇子は皇統譜正統の皇子である「日並皇子の命」そのものとして再生されたことを意味する。追慕の達成は、表現における新王者決定の儀式でもあった。ここには、幻視が事実を呼びこんでしまう、古代詩の壮絶な輝きがある。壮絶な輝きがもたらす緊張と感動とは、天皇の宣言でさえ及びもつかぬ底力をもって、軽皇子の霊力を人びとに植えつけたことであろう。なお、この歌群が発表されたのは、安騎野の狩が完了したのちの酒宴の場であったのであろうが、都に帰って持統天皇の面前でも披露されたということも考えられる。

軽皇子が、ほかにもいた何人かの皇位継承有資格者の中から、ひとりとり立てられて皇位についたのは、この一連の表現から実質4年ばかりのちのことであった。即位の時、軽皇子は15歳の少年であった。

<注:按針亭管理人
48の本文(書き下し文)には、本ページ冒頭に記したような通常の本文とは、次の2箇所が異なっています。
 1)「野にはかぎろひ」 (通常は)→「野にかぎろひの」
 2)「月西渡る」 (通常は)→「月かたぶきぬ」
詳細は、上掲『万葉集釋注 一』の155~156頁をご覧下さい。

2015年7月開催の日本詩吟学院主催「第61回夏季吟道大学講座」第2日目第2講で田邉岳璋先生が長歌と短歌二首(46と49)を講義された