桂林荘(けいりんそう)雑詠(ざつえい)諸生(しょせい)に示(しめ)す 廣瀬淡窓 道(い)うことを休(や)めよ他郷(たきょう)苦(く)辛(しん)多(おお)しと 同袍(どうほう)友(とも)有(あ)り自(おの)ずから相(あい)親(した)しむ 柴(さい)扉(ひ)暁(あかつき)に出(い)ずれば霜(しも)雪(ゆき)の如(ごと)し 君(きみ)は川(せん)流(りゅう)を汲(く)め我(われ)は薪(たきぎ)を拾(ひろ)わん
道(い)うことを休(や)めよ他郷(たきょう)苦(く)辛(しん)多(おお)しと 同袍(どうほう)友(とも)有(あ)り自(おの)ずから相(あい)親(した)しむ 柴(さい)扉(ひ)暁(あかつき)に出(い)ずれば霜(しも)雪(ゆき)の如(ごと)し 君(きみ)は川(せん)流(りゅう)を汲(く)め我(われ)は薪(たきぎ)を拾(ひろ)わん
【通釈】 他郷での勉学には、苦しいこと、つらいことが多いと言うのはやめなさい。そこには一つのどてらをともに着るような、苦労を分かち合う仲間がいて自然と仲良くなるのだから。塾舎の柴の折戸を開けて外に出てみると、霜は雪のように白く降りている。さあ、君は川に行って水を汲むのだ。ぼくは山でたきぎを拾ってこよう。
【作者】 廣瀬淡窓(1782~1856年)は、豊後国日田(現在の大分県日田市)の廣瀬宗家第五世三郎右衛門桃秋の長男として生まれた。幼児より学問を好み、身体が弱かったので家業を弟久兵衛に譲り、学問で身を立てることにし、26才で私塾(桂林荘、後に咸宜園)を開いた。生涯を子弟教育に尽くし、高名を慕って集まった門下生は50年で三千余人、没後を合わせると咸宜園出身者は90年で全国68ヶ国中66ヶ国から4600余人であったという。淡窓は号で、名は若いときは簡といい、後に建と改めた。
【桂林荘雑詠示諸生4首】 「休道」の漢詩は、「桂林荘」時代の「桂林荘雑詠示諸生」と題した4首のうちで最も世に知られたもの。桂林荘公園に4首を刻した碑がある。しかし、2009年5月12日の訪問時は、碑全面が著しく汚れ、写真掲載が憚れるので「休道」の外の3首を下に記す。