寒(かん) 梅(ばい) 新島襄 庭(てい)上(じょう)の 一(いち)寒梅(かんばい) 笑(わら)って 風雪(ふうせつ)を侵(おか)して 開(ひら)く 争(あらそ)わず 又(また) 力(つと)めず 自(おの)ずから 百(ひゃっ)花(か)の 魁(さきがけ)を占(し)む
庭(てい)上(じょう)の 一(いち)寒梅(かんばい) 笑(わら)って 風雪(ふうせつ)を侵(おか)して 開(ひら)く 争(あらそ)わず 又(また) 力(つと)めず 自(おの)ずから 百(ひゃっ)花(か)の 魁(さきがけ)を占(し)む
【通釈】 庭に美しく花をつけて寒梅の木が一本ある。その梅は笑ってきびしい風や雪に耐えしのんだ後、はじめてこの美しい花を咲かせるのである。別に他と争うのでもなく、また力むのでもなく、自然に多くの花の魁(さきがけ)となっているのである。
明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。 その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学10年 キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。 その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。