漢詩例示
吟詠詩歌 漢詩例示
吉次峠の戦い
新設:2011-03-09
更新:2017-11-01

(きち)()(とうげ)(たたか)
(さっ)()友房(ともふさ)
(きみ)()ずや(きち)()(けん)(しろ)よりも(けん)なり
     突兀(とっこつ)(そら)()して(みち)崢嶸(そうこう)
(けむり)()(たか)()()(へん)(みず)
     (かぜ)()(さん)(たけ)(ほう)(じょう)(はた)
(いっ)(ちょう)(けい)(つた)えて(わら)って(あい)()てば
     (たちま)()千軍(せんぐん)(ばん)()(こえ)
(しょう)(えん)(くも)()(たま)(あめ)()
     (そう)()一命(いちめい)鴻毛(こうもう)よりも(かろ)
吶喊(とっかん)(こえ)巨砲(きょほう)()して(ひび)
     (やま)(さけ)(たに)()乾坤(けんこん)(とどろ)
砲声(ほうせい)()ゆる(ところ)(しょう)(せい)(しずか)なり
     一輪(いちりん)皎月(こうげつ)陣営(じんえい)()らす


 
        吉次峠戰
                       佐佐友房
       君不見吉次之險險於城 突兀摩空路崢嶸
       烟籠高瀨河邊水     風捲三嶽峯上旌
       一朝傳警笑相待     忽聞千軍萬馬聲
       硝烟爲雲丸爲雨     壯士一命鴻毛輕
       吶喊聲和巨砲響     山叫谷吼乾坤轟 
       砲聲絶處松聲寂     一輪皎月照陣榮  
       

【通釈】
君は知っているだろう、吉次峠の峻険さは城壁を登るよりも困難だということを。崖は切り立ち、道は険しい。高瀬川から上る霧に視界も定かでなく、三ノ岳の峰の風が旗指物を吹き上げる。一たび敵襲が伝わり、笑って相対すれば、たちまち千軍万馬の敵が押し寄せてくる。硝煙は雲のように立ち、銃弾は雨のように降り注ぐ。勇壮な兵士の生命は、鳥の羽よりも軽い。敵陣に突入の鬨の声が砲声とともに山に叫び、谷に吼え、天地をとどろかせて響く。やがて、砲声が絶え、松の梢をわたる風声も静寂な中を、一輪の、皎皎たる月が陣営を照らし出すのである。
【出所】
普及版吟詠教本 漢詩篇(二)113頁
【作者】
佐佐友房(安政元年1854~明治39年1906)は熊本の人。号は克堂また鵬洲。藩校時習館に学び、のち水戸学の影響を受ける。西南戦争では熊本隊を組織して西郷軍に投じ、懲役10年に処せられた。のち赦されて儒教主義の教育にあたる。第1回衆議院選挙以後当選9回、政党人として活躍した。
 (出所)吟詠教本 漢詩篇(三)170頁

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吟者:赤羽岳頌、大原秀岳
2009年11月29日開催「翔風吟道会創立五周年記念吟道大会」の
構成吟「南洲・西郷隆盛~波瀾に満ちた生涯~」で収録した音源です
吉次峠激戦の地
「吉次峠激戦の地」案内板
吉次公園の遺跡案内板(詩碑の向い)

明治10年(1877)2月26日、寺田の戦いに敗れた熊本隊一番小隊長佐々友房は撤退してこの吉次峠に拠る。佐々は慨然として隊士に向い「あゝ吉次は城北随一の要害である。今これを失えば百の西郷あるともなお熊本を保つべからず。」という。従う者感泣して俱に死守を誓う。佐々は刀にて傍らの木を削り、「敵愾隊悉死此樹下」と刻して防備にあたった。
4月1日官軍進出し、攻め上る官軍を阻止していたが、半高山が破れて、さしも地獄峠と恐れられた吉次峠の守りを撤して三の岳山中に陣を移した。また熊本鎮台の密使伍長谷村計介はこの附近の山中にて捕らえられたが逃走して3月2日船隈の官軍本営にたどりつき使命を果たした。計介の記念碑は参道の中腹にある。なお、ここにある記念碑は佐々友房作の詩歌で、かっての教え子の安達謙蔵の書である。
(以上、左写真案内板記載内容を紹介)
詩碑「吉次峠の戦い」への階段
階段を登った処に右写真の詩碑がある
標識に「↑西南の役 吉次峠戦場地跡」
この階段の少し左方に坂道もある
詩碑「吉次峠の戦い」
「吉次峠の戦い」詩碑 昭和15年建立
書は安達謙蔵(漢城)
安達は横浜に「八聖殿」を建てている
詩碑「吉次峠の戦い」前から田原坂方面を望む
左写真詩碑前方から木葉方面
樹木が繁り見晴らしはよくない
周辺に松林はなく みかん畑のみ
篠原国幹戦士の地
篠原国幹の「墓」と「戦死の地案内板」
篠原国幹の「墓」と「戦死の地案内板」

明治10年(1877)3月4日、薩軍一番大隊長篠原国幹は、緋(ひ)裏の外套をまとい、銀装の大刀をおびて、率先陣頭に立って戦闘の指揮をとっていたが、顔見知りの同郷の後輩、近衛歩兵第一連隊第二大隊長江田国通少佐の指示するそ撃にあい東上の雄図空しくこの六本楠の地にて戦死した。一方そ撃を指示した江田国通少佐もまた、報復の念に燃える薩軍の銃弾によって戦死、薩軍の猛撃により、官軍は高瀬に敗退した。この戦闘は激しく、この日官軍が撃った小銃弾は数十万発だったといわれる。この日以後官軍は吉次峠のことを「地獄峠」と呼んだ。
(以上、左写真案内板記載内容を紹介)
「佐佐隊死守之処」碑
佐佐隊死守之処碑
篠原国幹戦死の地
篠原国幹戦死の処
篠原国幹戦死の地から玉名(高瀬)方面を望む
篠原戦死の地から玉名(高瀬)方面
半高山戦跡
半高山戦跡案内板
半高山の「半高山戦跡」案内板

この山は三の岳の半分の高さなので半高山と呼び、標高293㍍である。
明治10年(1877年)3月3日、官軍は払暁の濃霧を利用して、この山を不意に襲い、右翼に支援部隊を増加して、山麓の火砲の援護射撃により占領した。しかし、薩将村田、篠原は逆襲して奪回した。
4月1日植木方面の交戦がしばらく止んだ。この間、官軍は吉次附近を急襲して一挙に木留を突破して熊本に進出せんと、二俣横平山より前進して半高山頂の薩軍陣地に肉薄した。薩軍もこれを察知して激戦となる。元来薩軍の困るものが3つあり、1つは雨、2つは赤帽、3つは大砲といわれ、赤帽とは近衛兵で、それは近衛兵の勇敢さをいったものである。官軍は、「近衛兵の名誉を汚すな」と叱咤激励して薩軍に突入した。このため薩軍も遂に木留方面に敗走した。
(以上、左写真案内板記載内容を紹介)
半高山と吉次峠への道路
左手は半高山、道路奥が吉次峠
その右路側に右写真の標識がある
吉次峠・半高山激戦地跡標識
右:ここは吉次峠 西南の役の激戦場跡です
左:←西南の役 半高山戦場地跡
半高山への案内標識
半高山(手前)左植木町、右三の岳
半高山登口反対側路側の標識
吉次峠手前の「玉東町」と「植木町」の境界標識
左標識手前「玉東町」 奥「植木町」
左奥坂道を登ると半高山
半高山公園の鳥居とご神体?
半高山公園の鳥居とご神体?
奥は三ノ岳稜線、周囲はミカン畑
三ノ岳への道路標識
左「三ノ岳」への道路標識
右に降りると本村バス停へ
田原坂古戦場ほか
田原坂資料館から三ノ岳・半高山を望む
田原坂資料館から三ノ岳・半高山を望む
左写真位置から望遠で三ノ岳と半高山
左写真位置から望遠で三ノ岳と半高山
田原坂公園の美少年像
田原坂公園の美少年像
木葉(このは)駅前バス停
木葉(このは)駅前バス停
奥に「田原坂案内板」
豊岡の眼鏡橋
豊岡の眼鏡橋
官軍はこの橋を渡って田原坂に向かった
田原坂頂からの「三の坂」
田原坂 三の坂
田原坂頂きから丸見えであった
JR植木駅前の案内板
JR植木駅前の案内板
JR「植木駅前」路線バス停
JR「植木駅前」路線バス停
本村バス停(公民館前)吉次峠最寄り
本村バス停(公民館前)吉次峠最寄り
JR植木駅ホーム
JR植木駅ホーム
JR田原坂駅ホーム(無人駅)
JR田原坂駅ホーム(無人駅)
JR木葉駅前の田原坂案内板
JR木葉駅前の田原坂案内板
参 考
このページに掲載の写真は、按針亭管理人が2009年5月14日に公共交通機関(JRと路線バス)と徒歩で訪ね、撮影したもの。

5月13日、JR熊本駅前のビジネスホテルに泊まり、14日早朝JR熊本駅6:29発大牟田行き列車に乗車、植木駅6:42下車、植木駅前バス停7:16発玉名駅行き産交バスに乗車、玉東町本村(ほんむら)バス停7:29下車、徒歩で吉次峠・半高山などを訪ねた。

当日は好天に恵まれ「吉次峠の戦い」詩碑前で「吉次峠の戦い」を気持ちよく吟じることができた。帰路は本村バス停10:12発の玉名駅行きバスに乗車、JR木葉駅前で下車し田原坂などを徒歩で訪ね、田原坂駅から熊本駅に戻った。
植木町役場と玉名駅を結ぶ路線バスは1日3往復あるだけであった。 その後、植木町は2010年3月に熊本市に編入された。

玉東町では、随所に案内板が設けられており、下の写真は「本村バス停」から少し木葉寄りの吉次公園・半高山への分かれ道 角に立てられていた2009-5-14現在のもの。
この案内図がインターネットで見ることができれば、遠方から訪ねる人には一層役に立つと思われる。


玉東町観光・史跡案内図写真
撮影:2009-05-14