吉(きち)次(じ)峠(とうげ)の戦(たたか)い 佐(さっ)佐(さ)友房(ともふさ) 君(きみ)見(み)ずや吉(きち)次(じ)の険(けん)は城(しろ)よりも険(けん)なり 突兀(とっこつ)空(そら)を摩(ま)して路(みち)崢嶸(そうこう) 煙(けむり)は籠(こ)む高(たか)瀬(せ)河(か)辺(へん)の水(みず) 風(かぜ)は捲(ま)く三(さん)の岳(たけ)峰(ほう)上(じょう)の旌(はた) 一(いっ)朝(ちょう)警(けい)を伝(つた)えて笑(わら)って相(あい)待(ま)てば 忽(たちま)ち聞(き)く千軍(せんぐん)万(ばん)馬(ば)の声(こえ) 硝(しょう)煙(えん)雲(くも)と為(な)り丸(たま)雨(あめ)と為(な)る 壮(そう)士(し)の一命(いちめい)鴻毛(こうもう)よりも軽(かろ)し 吶喊(とっかん)の声(こえ)は巨砲(きょほう)に和(わ)して響(ひび)き 山(やま)は叫(さけ)び谷(たに)は吼(ほ)え乾坤(けんこん)轟(とどろ) 砲声(ほうせい)絶(た)ゆる処(ところ)松(しょう)声(せい)寂(しずか)なり 一輪(いちりん)の皎月(こうげつ)陣営(じんえい)を照(て)らす
君(きみ)見(み)ずや吉(きち)次(じ)の険(けん)は城(しろ)よりも険(けん)なり 突兀(とっこつ)空(そら)を摩(ま)して路(みち)崢嶸(そうこう) 煙(けむり)は籠(こ)む高(たか)瀬(せ)河(か)辺(へん)の水(みず) 風(かぜ)は捲(ま)く三(さん)の岳(たけ)峰(ほう)上(じょう)の旌(はた) 一(いっ)朝(ちょう)警(けい)を伝(つた)えて笑(わら)って相(あい)待(ま)てば 忽(たちま)ち聞(き)く千軍(せんぐん)万(ばん)馬(ば)の声(こえ) 硝(しょう)煙(えん)雲(くも)と為(な)り丸(たま)雨(あめ)と為(な)る 壮(そう)士(し)の一命(いちめい)鴻毛(こうもう)よりも軽(かろ)し 吶喊(とっかん)の声(こえ)は巨砲(きょほう)に和(わ)して響(ひび)き 山(やま)は叫(さけ)び谷(たに)は吼(ほ)え乾坤(けんこん)轟(とどろ) 砲声(ほうせい)絶(た)ゆる処(ところ)松(しょう)声(せい)寂(しずか)なり 一輪(いちりん)の皎月(こうげつ)陣営(じんえい)を照(て)らす
【通釈】 君は知っているだろう、吉次峠の峻険さは城壁を登るよりも困難だということを。崖は切り立ち、道は険しい。高瀬川から上る霧に視界も定かでなく、三ノ岳の峰の風が旗指物を吹き上げる。一たび敵襲が伝わり、笑って相対すれば、たちまち千軍万馬の敵が押し寄せてくる。硝煙は雲のように立ち、銃弾は雨のように降り注ぐ。勇壮な兵士の生命は、鳥の羽よりも軽い。敵陣に突入の鬨の声が砲声とともに山に叫び、谷に吼え、天地をとどろかせて響く。やがて、砲声が絶え、松の梢をわたる風声も静寂な中を、一輪の、皎皎たる月が陣営を照らし出すのである。
【作者】 佐佐友房(安政元年1854~明治39年1906)は熊本の人。号は克堂また鵬洲。藩校時習館に学び、のち水戸学の影響を受ける。西南戦争では熊本隊を組織して西郷軍に投じ、懲役10年に処せられた。のち赦されて儒教主義の教育にあたる。第1回衆議院選挙以後当選9回、政党人として活躍した。 (出所)吟詠教本 漢詩篇(二)170頁
▶をクリックすると mp3ファイル(1051KB)を読込ん後に 再生します 吟者:赤羽岳頌、大原秀岳 2009年11月29日開催「翔風吟道会創立五周年記念吟道大会」の 構成吟「南洲・西郷隆盛~波瀾に満ちた生涯~」で収録した音源です
明治10年(1877)2月26日、寺田の戦いに敗れた熊本隊一番小隊長佐々友房は撤退してこの吉次峠に拠る。佐々は慨然として隊士に向い「あゝ吉次は城北随一の要害である。今これを失えば百の西郷あるともなお熊本を保つべからず。」という。従う者感泣して俱に死守を誓う。佐々は刀にて傍らの木を削り、「敵愾隊悉死此樹下」と刻して防備にあたった。 4月1日官軍進出し、攻め上る官軍を阻止していたが、半高山が破れて、さしも地獄峠と恐れられた吉次峠の守りを撤して三の岳山中に陣を移した。また熊本鎮台の密使伍長谷村計介はこの附近の山中にて捕らえられたが逃走して3月2日船隈の官軍本営にたどりつき使命を果たした。計介の記念碑は参道の中腹にある。なお、ここにある記念碑は佐々友房作の詩歌で、かっての教え子の安達謙蔵の書である。 (以上、左写真案内板記載内容を紹介)
明治10年(1877)3月4日、薩軍一番大隊長篠原国幹は、緋(ひ)裏の外套をまとい、銀装の大刀をおびて、率先陣頭に立って戦闘の指揮をとっていたが、顔見知りの同郷の後輩、近衛歩兵第一連隊第二大隊長江田国通少佐の指示するそ撃にあい東上の雄図空しくこの六本楠の地にて戦死した。一方そ撃を指示した江田国通少佐もまた、報復の念に燃える薩軍の銃弾によって戦死、薩軍の猛撃により、官軍は高瀬に敗退した。この戦闘は激しく、この日官軍が撃った小銃弾は数十万発だったといわれる。この日以後官軍は吉次峠のことを「地獄峠」と呼んだ。 (以上、左写真案内板記載内容を紹介)
この山は三の岳の半分の高さなので半高山と呼び、標高293㍍である。 明治10年(1877年)3月3日、官軍は払暁の濃霧を利用して、この山を不意に襲い、右翼に支援部隊を増加して、山麓の火砲の援護射撃により占領した。しかし、薩将村田、篠原は逆襲して奪回した。 4月1日植木方面の交戦がしばらく止んだ。この間、官軍は吉次附近を急襲して一挙に木留を突破して熊本に進出せんと、二俣横平山より前進して半高山頂の薩軍陣地に肉薄した。薩軍もこれを察知して激戦となる。元来薩軍の困るものが3つあり、1つは雨、2つは赤帽、3つは大砲といわれ、赤帽とは近衛兵で、それは近衛兵の勇敢さをいったものである。官軍は、「近衛兵の名誉を汚すな」と叱咤激励して薩軍に突入した。このため薩軍も遂に木留方面に敗走した。 (以上、左写真案内板記載内容を紹介)
このページに掲載の写真は、按針亭管理人が2009年5月14日に公共交通機関(JRと路線バス)と徒歩で訪ね、撮影したもの。 5月13日、JR熊本駅前のビジネスホテルに泊まり、14日早朝JR熊本駅6:29発大牟田行き列車に乗車、植木駅6:42下車、植木駅前バス停7:16発玉名駅行き産交バスに乗車、玉東町本村(ほんむら)バス停7:29下車、徒歩で吉次峠・半高山などを訪ねた。 当日は好天に恵まれ「吉次峠の戦い」詩碑前で「吉次峠の戦い」を気持ちよく吟じることができた。帰路は本村バス停10:12発の玉名駅行きバスに乗車、JR木葉駅前で下車し田原坂などを徒歩で訪ね、田原坂駅から熊本駅に戻った。 植木町役場と玉名駅を結ぶ路線バスは1日3往復あるだけであった。 その後、植木町は2010年3月に熊本市に編入された。 玉東町では、随所に案内板が設けられており、下の写真は「本村バス停」から少し木葉寄りの吉次公園・半高山への分かれ道 角に立てられていた2009-5-14現在のもの。 この案内図がインターネットで見ることができれば、遠方から訪ねる人には一層役に立つと思われる。