新設:2011-02-08
更新:2017-11-01
蘆花を世話した柳屋当主・石渡嘉兵衛
1844年(弘化元)-1912年(明治45)の
三男秀雄(明治38年生)は旧「柳屋」に
母(嘉兵衛妻)と共に住んでいたが
母は1940年(昭和15)に没した
1942年(昭和17)秀雄は桜山9丁目に
新居(平屋)を設けて転居
1951年(昭和26)増築し
旅館業を開始
秀雄の長男秀喜(1935年生)が
旅館業を継ぎ
左端写真建物(2011年2月撮影)にて
徳富蘆花ゆかりの宿
海近き山荘
粋な宿 柳屋
として営業を継続してきた
しかし、高令と後継者不在ゆえ
2012年に廃業
焼けずに済んだ
蘆花が愛用した
机と籐椅子
机上奥書籍は蘆花全集(初版)
右写真立札は展示するときの案内
現「柳屋」当主・石渡秀喜氏所蔵
(秀喜氏は旧「柳屋」で生まれた)
1954年(昭和29)1月28日
旧「柳屋」が借り主の失火で焼失
神奈川新聞が
昭和29年1月29日(金)
逗子の柳屋焼ける
”不如帰”を生んだ芦花の家
との見出しで、報道した
28日朝9時半ごろ逗子町桜山2251柳屋こと伊勢丹寮の台所口から発火、平屋1棟35坪を全焼、離れ約25坪を焼き、同10時半ごろ鎮火した。徳富芦花夫妻がこの家に寄寓し、有名な「自然と人生」や「不如帰」を執筆したゆかりの家だった。
当時芦花の愛用した机や籐椅子は、さいわい他に預けてあったので焼失をまぬかれたが、逗子をきょうの天下の逗子にまでしてくれた芦花の貴重な文化遺産を失ったとして町民はいたく悲しんでいる。
蘆花・独歩を世話した柳屋当主石渡嘉兵衛1844年(弘化元)-1912年(明治45)の五十回忌に際し、嘉兵衛長男喜市が郷土史家・木村彦三郎に依頼して作成した小冊子「柳屋の独歩蘆花」は非売品
逗子市郷土資料館には、左写真のとおり、奈良幸雄氏寄贈としてガラスケースの中に展示されている
国会図書館にも所蔵されているがコピーが禁じられている
「柳屋の独歩蘆花」序文のほんの一部を右のとおり紹介する
序
~略~
この二人のえらい文学者とゆかりの浅くない「柳屋」の建物は失われてしまいましたが、建物がありました一部の土地に両先生のありし日を偲ぶために、記念碑を建設いたしました。
~略~
1961年2月5日
亡父嘉兵衛五十回忌に際して
柳屋当主 石渡喜市
左写真は、旧「柳屋」付近を田越川の対岸から撮った現「柳屋」所蔵の古い写真(撮影年月日不明)
左上は富士見橋で、右端の屋根は柳屋の店舗部分と思われ、見えないが右奥に茅葺母屋があった筈、最右端の小さな白い柱に見えるのが柳屋の門柱と思われる。往時は川に降りやすかった代わりに、大雨が降ると田越川は氾濫したらしいが、現在は護岸工事が進んで川に降りるのは難しい(右写真:柳屋跡対岸から富士見橋方面)
左写真の柳屋跡「蘆花独歩ゆかりの地」碑(手前)は石渡嘉兵衛50回忌に当たる1961年(昭和36)に建立された。左の道路は県道24号で横須賀市船越交差点から逗子市桜山渚橋交差点を結ぶ、左に見える3本の電柱の一番奥の辺りが富士見橋、道路の突き当たりのように見える辺りが蘆花両親が住んでいた「老龍庵跡」
右写真は「柳屋」門柱の一部で僅かに「柳」と思われる文字が見え、碑の右後下にある。
左上写真の碑表面は、右碑に「蘆花独歩ゆかりの地」と、左碑に蘆花の「青いくも 白い雲 同じ雲でも わしゃ白雲よ わがまま気がまに 空を飛ぶ」が刻まれ、右碑の「裏面」は蘆花と独歩の作品から柳屋に触れた場面が 碑中央上部の「やなぎ屋」の文字と共に刻まれているが、一部表面劣化のため読み難いところがある。
「明治大正昭和年表 逗子の三代史」によると、右碑は1961年(昭和36)6月27日、左碑は1971年(昭和46)晩春に建ったという。
2つの碑が建つ柳屋跡は
逗子市桜山8-10-18
往時は、「蘆花・独歩ゆかりの地」碑の左手に藤棚があって、その奥に蘆花夫妻が借りた部屋があったという。
また、碑右手には大楠があったようだが、藤棚も大楠も現存しない。 ※1
「ゆかりの地碑」右側にある個人住宅の裏側に左写真のとおり「楠の木」と思われる大樹がわずかに1本見られるのみ。
右写真は、田越川の反対側から「ゆかりの地碑」を撮ったもの(左家屋の右端に碑) (2011-2-18現在)
桜山の昔を語る会編
郷土誌 さくらやま
平成13年12月23日発行
発行者 黒田康子
逗子市と横須賀市の図書館に
所蔵されている
現在の逗子市桜山1~9丁目、江戸時代の桜山村について、1999年(平成11)に発見された長柄・桜山古墳を含め、伝説、古道、年中行事、旧家一覧と解説、田越川などをまとめた労作。
旧家の中には、石渡嘉兵衛に関する独立した記述もあり、本ページ「蘆花ゆかりの柳屋・あらめ屋」を作成するのに参考となった。
なお、現「柳屋」当主・石渡秀喜氏から、本書の存在を教えて頂くと共に拝見させて頂いた。
石渡嘉兵衛の次男敏三(明治30年生)が営んだ料亭「あらめ家」が、鎌倉「二の鳥居」脇にあったという
昭和が去り平成となった頃
画廊に変わり※2、現在は駐車場
駐車場奥の石渡ビル裏手に、料亭「あらめ家」の門が現存
徳富蘆花が小説冨士で「柳屋」を「あらめ屋」と表現したことに因んだ料亭名
門の屋根下中央に石渡の表札がある
撮影:2011-01-27 -02-01 -18 -20 -28 -03-13
※1 :
石原慎太郎は、「弟」幻冬舎刊の中で、少年期の頃を「家のすぐ近くに蘆花の逗留した『柳屋』という小さな宿があり、…(略)… その庭先には西風の折には天を摩して鳴る大きな樅(もみ)の木もあった」と記している。
※2 :
「私のかまくら」1996年5月1日、アルファ発行 5月号 第209号 20~21ページの名店ガイドに、「あらめ家画廊」として 「うなぎ浅羽屋」の隣に記されている。
本ページ作成に際し、現「柳屋」当主石渡秀喜氏から、蘆花ゆかりの机・椅子などの写真撮影の便宜を受ける外、郷土誌「さくらやま」記載内容一部訂正を含め、大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。